オリエ津阪 × 性格 の噂って!?
有名人になると、その性格を取り沙汰される機会も増えます。オリエ津阪はその性格をどのように語られているのでしょうか。
まず、オリエ津阪についてのwikipediaのページを確認しましょう。
Wikipedia上のオリエ津阪と「性格」
1939年に発表された団員の序列では、水の江に次ぐ第2位に記名されている。津阪と水の江は対照的な個性を持ち、洋舞を得意とし西洋的な柄が合っていた水の江に対し、日舞が売りの津阪は和物の若衆姿などが似合いとされ、ファンも二分されていた。『古川ロッパ昭和日記』の1934年1月13日の項には、松竹座で水の江のファンが「ターキー、ターキー」と掛け声を発すると、これに対抗した津阪のファンが「ツサカ、ツサカ、オリエ、オリエ」と応じる様子が描写されている。また同時代を舞台とした向田邦子の小説『あ・うん』にも、時代感を醸す要素として「相弟子と三人五人連れ立って、ターキーとオリエ津阪とどっちが好きかなどとしゃべりながら、蜜豆を食べたりするのだが」という一文がある。両者と同時代に宝塚歌劇のスターだった葦原邦子は、水の江には宝塚のスターにはない独特の魅力があったのに対し、津阪は「日本的な感じ」だったと評している。また津阪自身は「私の役柄はどなたも憂愁の貴公子的なものが似合うように思はれてゐますし事実私の性格も地味で淋しい方ですが、自分ではむしろ三枚目の方が好きなのです」と述懐し、思い出の作品にも三枚目を演じた『ライラック・タイム』(1939年)を挙げている。一度代役で三枚目を演じた際に演出家の青山圭男から好評を得、以後しばしば「二枚目半」を演じたこともあった。
東洋高女時代に若柳吉三郎夫人・若柳吉三津による舞踊「娘道成寺」を観てから日本舞踊に特に関心を抱き、松竹歌劇時代に橘左近(橘抱舟)に師事し名取名「橘左門」を得ている。1948年頃には橘流の家元を継ぎ、宮城の劇団を離れてからは日舞の師匠として過ごした。以後は内向的な性格に加えて、喘息の持病、さらに白内障を患ったこともあり、表舞台に出ることはなく、テレビ等で活動を続けた水の江とは対照的に一般には忘れられた存在となった。1978年に取材を受けた際には、日用の雑事以外にはほとんど外出もせず隠棲している様子が伝えられ、インタビューの中では活発に活動する水の江や宮城への憧憬の念を吐露しつつも、松竹時代については「ああいうお仕事、私の性質としては無理だったんですね。神経が疲れちゃったんです」と振り返り、「両親が、お前には無理だと言ったとき、素直にやめとけばよかったんです。そう今では思います」との言葉を残している。
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