永井均の噂・評判

永井均に関わる噂や評判、印象データをまとめています。

永井均に対する評価・印象は、1位 賢い(100%)であると考えられます。(参考データポイント:208)

永井均の噂の注目度ランキング1位は「事件」、2位は「裁判」、3位は「事故」で、日経、文春等のメディアで記事とされています。

永井均とあなたの…

永井均の評判と印象

永井均の注目の噂

永井均の最近の投稿

吉本隆明の『言語にとって美とは何か』が三浦つとむの影響下にあることは有名だが『共同幻想論』の「逆立」も『心的現象論』の「原生的疎外」も同様に解釈できる。吉本に反してこの「逆立」等は一方の視点に立つと他方がそもそも存在しなくなると捉えるべきものだが。「観念的な自己分裂」も実は同じだ
@6MwK35NRxX7IpDb それは「逆立ち」です。
@6MwK35NRxX7IpDb 「逆立」は普通の日本語にはない吉本の造語ですが、「逆立ち」のようにどちらが正しい(普通の)姿勢でどちらが「逆」であるかの価値的区別のない、相互関係的概念です。
三浦も吉本も発想の根幹はマルクスに由来する点を考慮するなら、私の言う「存在しなさ」は、市場経済下での労働価値説の「語りえなさ」(労働の無寄与性)にも対応していて、〈私〉や〈今〉の言語的世界における実在しないさの議論とも無縁ではないのだが、あまり話を広げても何なので、終わり。

永井均のその他の投稿

「リベラル」の意味ですね! https://t.co/wwQ1GMrohx
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この問いは「いけない」ことはすでに前提されているのですか? https://t.co/N3s8Gzf2ZF
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「女性専用車両に乗って抗議をした男性をローザ・パークスにたとえてよいかよくないか。よいとすればそれはなぜでよくないとすればそれはなぜか。よいと思う者はよくないと思う者が持ち出しそうな議論を論駁する形で、よくないと思う者はよいと思う者が持ち出しそうな議論を論駁する形で、論じなさい」
ではどうだろうか。けっこう良問だと思うが。難問だが。
@manma2016 クリティカルシンキングの答案であれば合格点ですが、倫理学の答案だとすると、まだ何も言っていないですね。問題は、人種差別により優遇される事と****防止などの必要性から優遇される事では何が本質的に違うのか、ですから… https://t.co/GpKmSm2W2c
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@manma2016 あ、まだ続いているのですね。最初のツイートだけで返信しましたが、そのようにかなり長く続けていくなら倫理学的な議論になりうると思います。しかしやはりツイッターでやるのは大変なことですが。
まず、優遇されていない側が優遇政策に抗議する点では共通だが、人種差別に基づく根拠なき優遇と****対策などの根拠ある優遇とは異なる、云々という内容的な問題と、そのことを訴えるための手段(方法)の類似性に着目してこれを「同じやり方」だといえるか否かという問題、の二つが区別できますね。
@smizusaki そうですか。たとえば、どこで、どんなふうに?
後者にかんするかぎり、ローザ・パークスは人種分離法に違反しているから彼は革命的法創造行為を行なったと言え、その正当性を議論できるが、女性専用車両の件は法に違反していないのでそもそも何の問題もなかった、という明白な違いがあると考えることができる。その意味で「たとえてはいけない」と。
@hinokiharappa 滅茶苦茶のたとえだと思う人は、そう思わないであろう人が言いそうなことを自分自身で考え出し、それに一定の説得力を自ら付与した上で改めてそれに対して論拠に基づいた論駁をする、というのがこの議論の仕方のポイントです。
@hinokiharappa それらはすべてすでに自分の内部に存在している論拠にすぎません。相手の側の論拠を「あえて」自分の側で作ろうとしてみる(実際に存在する相手の言い分を聞くのではなく)ということが、ここでのポイントです。たぶ… https://t.co/vHPQBk9NWX
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@9YbrUHWt それは一つの意味のある論点だと思います。
『論理哲学論考』と『哲学探究』は二種の悟りの開き方を示した著作だろう。前者はヒンドゥー教で後者は仏教だ。私はその二つは(「言える」ことの範囲が違うだけで)じつは同じだと思う。
@trdkn 誤記です。
@riosis11 @hinokiharappa それを打ち破って、実際に存在する相手が持ち出しそうな議論を超えた、存在しうる理想的な反論をこちらから能動的に創造することがここでの理想です。論敵の立場をあえて有利にするために努力す… https://t.co/NsmchByisR
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ペソア…。 https://t.co/n6MFwpSPUZ
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そうですね。(ところで、彼はツイッターやってないのかな?) https://t.co/rWA2eZW9bT
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おっしゃる通りですね(特に最後の2文)。ところで、真ん中の()内は「問いを抱いて瞑想することも自然なことではない」の意味? だとしたら、これもたぶんおっしゃる通りでしょう。 https://t.co/VWLfo508yM
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これも、おっしゃる通りだと思います。 https://t.co/N8ATDVDNy1
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西部邁さんの思想はこの意味で政治的だった。「実は私は死ぬわけはないのだ。「私」とは「言葉としての私」なのであり、その言葉を支えているのは伝統である。そしてその伝統が不滅なのであるから、私は死なないし、死ねないのである。死ぬことができるのは単なる生命体としての私である。」
@miyataketetsuo 「空間それ自身」を空間内に在る一つのものとすることによって中心性を作ろうとすると、もとの「空間それ自身」だけが中心になってしまいませんか?
@miyataketetsuo まずくはないが、剥き出しの現実性だけでは相対化しがたい。何を相対化したらよいかわからないので。〈私〉とか〈今〉とか〈現実世界〉なら、他のそれが「何であるか」が限定されている。しかし、そうなると、「私… https://t.co/slRknjyOq8
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@shogoinu 正しいと思います。「超越を構成する」の理解の仕方にもよりますが。
どの瞬間にも諸力によって支えられ結ばれ合っているような一体的繋がりvs.それに還元できない(されてはならない)他者、といった対立図式もある。なぜか前者が非難の意味で「独我論」と呼ばれたりもする。私にはどちらも存在論を装って一種の政… https://t.co/Cf2P4nGSbD
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ツイッターで私が面白く感じるのは、話しかけてきた人に返事をしなくてもよい(らしい)ところ。人の言っていることについて何を言ってよいのだが、何を言われても無視して勝手に続けていてもよい(らしい)ところ。このコミュニケーションのあり方は他にあまり例がない。こんなのがありだったとは!
この対立図式のもつ問題や存在論(事実判断)の形をとって価値判断を語ることの問題はともあれ、私は引用されている地橋秀雄@グリーンヒル瞑想研究所さんとは真逆に、「この私」という感覚はエゴ妄想によって生まれるのではなく、私が実は仏であることによって生まれる(しか生まれえない)と考える。

永井均の基本情報

永井 均(ながい ひとし、1951年11月10日 - )は、日本の哲学者。日本大学教授。存在論・倫理学などを専門分野とする。

1951年生20世紀の哲学者21世紀の哲学者信州大学の教員倫理学者千葉大学の教員形而上学者心の哲学者慶應義塾大学出身の人物日本の哲学者日本大学の教員東京都出身の人物インテリオタク

「今」誰かが見てる噂