キドカラー大道の噂・評判

キドカラー大道( 過去のたけし軍団 過去の太田プロ )に関わる噂や評判、印象データをまとめています。

キドカラー大道に対する評価・印象は、1位 楽しい(61%)、2位 話題(20%)、3位 愛すべき(6%)、4位 憧れ(3%)、5位 実力派(3%)、6位 賢い(3%)であると考えられます。(参考データポイント:86)

キドカラー大道とあなたの…

キドカラー大道の評判と印象

キドカラー大道の最近の投稿

ビートたけしという人物で、特に注意して欲しいのは、そのコメントの数々にいかに関係各位への配慮が施されているかと言うところ。我々へはとどのつまりそこを一番学んで欲しかったのではと今になって思うのだが、それは適わなかった。なぜならそこへは一定水準の「感性」が必要だったからだ。
俺がボーヤ時代に、公開番組で子供達を前に質問を受けるコーナーがあり「たけしさんはなぜさんまさんとコンビを組まなかったのですか?」という、なかなか繊細な問いに対し殿は「それは最初にきよしさんと出会ったからです」と答えた。「正直」と言えばそれまでだが、深慮を感じた一幕だった。
「殿の配慮」と真逆が東国原知事が2009年自民古賀選対委員長の出馬要請に「俺を総裁候補として擁立せよ」と応じた事だ。自動的に「いつでも知事の座は放棄する」と言っているも同然で彼に一票投じた宮崎県民の心を踏みにじり総ては「地位目的」と天下に示し、さすがに殿が止めざるを得なかった。
「軍団の至らぬ行動は総て殿の名誉にキズをつける」という自覚が彼に限らず希薄、というより一切ないよね。

キドカラー大道のその他の投稿

件の話はもちろん殿は「お前に投票してくださった宮崎県民の方々に失礼だ」との点で怒ったのだが、最初に殿の許に来た、いわば「長男」にして、さら52才にもなってこれだから、あまりに愚かで寂しい話だった。
面白そうなので、本日これを観に行って来ます。 https://t.co/yL0FUaotuy
内装工事中のギャラリー全体を使ったインスタレーション。秋山佑太、カタルシスの岸辺が示す「超循環」|美術手帖
神宮前に新たに開廊するギャラリー・EUKARYOTEで秋山佑太、カタルシスの岸辺を招いた企画展が開催される。本展はギャラリーの内装工事と並行して開催し、1階から3階、さらに屋上を含んだ空間でインスタレーションを発表する。会期は2018年1月27日〜2月4日。【美術手帖が運営するアートニュースサイト。アートを中心にクリエイティブ・マインドを刺激するコンテンツを発信します。】

1985-86年頃ファンだった方へ。プレゼントは総て殿本人が目を通していた。 四ッ谷サンハイツの地下のスタジオがへ定期的に俺が事務所からプレゼントを運び込んだ。中身を出し手紙と一緒に並べ、仕事の合間に声を掛け時間をかけ見てもらった いつも「本当はお礼したいけどな」と言っていた
この着付けでポイントは、雪駄をほんの少し鼻緒を指でつまむような履き方。「いなせ」ってやつだね。 https://t.co/qJsXu3EGCW
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ツービートの「ファン第一号」は飯塚さんという質素な女性だ。舞台やコンサートで花束が来ると、打ち上げへ招いていた。北の屋へも招待した事があって殿はファンが初めて出来た当時の嬉しさを感謝を交え潤んだ目で語るのだが、その姿から、いかに当時四面楚歌であったかも俺は察する思いだった。
懐かしい。高田先生は嫌いだけど(笑):ビートたけしのオールナイトニッポン、5年ぶりに一夜限り復活 3月3日放送/芸能/デイリースポーツ online https://t.co/iRzfPTXgsL @Daily_Onlineさんから
ビートたけしのオールナイトニッポン、5年ぶりに一夜限り復活 3月3日放送/芸能/デイリースポーツ online
情報満載デイリースポーツ/ビートたけしのオールナイトニッポン、5年ぶりに一夜限り復活 3月3日放送

当時「弟子入りしたいんだけど殿に迷惑は掛けたくない」という矛盾に突き当たって、結局弟子入り志願者が常にいるニッポン放送なら殿にも「構え」があるだろうから「ここならいくらかマシかな」と考えて1984年12月、直訴した。懐かしい。未明だってのに50人位の女の子が玄関前にたむろしてて。
俺は今の「全てを手にしたような」ビートたけしなら俺は弟子入り志願はしなかった。1984年当時はスポーツ大将、たけし城、元気の出るテレビが軒並み当たり、ひょうきん族も加えると8時台4局で視聴率トップの「四冠王」となる前年でまだ「全国区」ではなかった。そのタイミングだから良かった。
ANNの時軍団は一緒にニッポン放送に入るが、なぜかラッシャー板前だけは外れていた。それは当時仕事がハードな中でボーヤを献身的に務めていたラッシャーへ殿が「この夜だけはお前は休め」と配慮してくれたから。でも、江戸っ子だから口ではそんな事を言わない。「お前は来なくていい」それだけ。
ANNの夜は一応ラッシャーとセピアは集まりラジオを聴いている。そして頃合いを見計らって四谷三丁目の焼き肉店「羅生門」の玄関で殿ら一行をお迎えする。北の屋が出来てからはそれが北の屋になった。翌朝が6時からたけし城のロケで、ここの流れが一番キツかったんだよなあ。寝ないで行く格好で。
高田文夫を嫌いな理由はこの人、殿と同じような気になって軍団に説教めいた事を言うんだよな。そりゃ「おい。違うだろお前は俺たちの師匠じゃないぞ」って思うよ。「ビートたけしの名前」で喰っている様な体はむしろ軍団に近いんであってさ。俺は一度も世話になったことはないからね。この人には。
「お前風情(ふぜい)が何を言ってる」と言われるだろうが、当時は「ビートたけしの凄さ、素晴らしさを天下に知らしめてやる!」なんて強い念(おも)いがあった。まだ殿は全国区じゃなかったから。それには弟子が師匠の名を借りず自力で成功し、そこで宣揚するしかない!と決意していた。
でも今思えばそれは俺の思い上がりと独りよがりで、ビートたけしの凄さ素晴らしさは「本物」だから、時間はかかったけど結局日本のみならず世界で評価されたよね。俺なんて全然関係ない(笑)当然だよ。でもそんな当時の俺の心意気は俺自身は今振り返っても好きだけどね(笑)
私の頃は既に「クラブD」になってましたね。でも「日本で最初のクラブ」は「EP-4」を生み出した京都の「クラブ・モダーン」じゃなかったでしたっけ。:1982年の鹿鳴館、原宿「ピテカントロプス・エレクトス」誕生秘話 | 1982年 | https://t.co/g3kNEYKCfY
1982年の鹿鳴館、原宿「ピテカントロプス・エレクトス」誕生秘話 | 1982年 | リマインダー - 80年代音楽エンタメコミュニティ、エキサイティング80’s!- Re:minder
「ピテカントロプス・エレクトス」=直立原人。通称ピテカンの誕生だ。社長夫妻は「あえて装飾せず来た人の色が付く様に」と踊るもよし、話すもよし、店内はアートギャラリースペース、DJブース、ライブやショーが出来るスペース、そして一番画期的だったのはいわゆるディスコ飯でなく深夜でもちゃんと温かい和食が出る店だった。そんな店は今迄日本に無かった。この店はたちまち評判を呼び常にあらゆる事を発信し続けた。 

https://t.co/Cxy7d8RoJB
バウハウス100周年で「バウハウス100ジャパンプロジェクト」が発足。巡回展や研究などを展開|美術手帖
1919年、ドイツ・ワイマールで創立された教育機関「バウハウス」。このバウハウスが2019年に100周年を迎えるのにあわせ、「バウハウス100ジャパンプロジェクト」が日本全国およびウェブサイト上で展開される。【美術手帖が運営するアートニュースサイト。アートを中心にクリエイティブ・マインドを刺激するコンテンツを発信します。】

殿は江戸っ子なので普段から差し出がましい行為を嫌う。だから軍団以外のお笑いタレントに自ら指導めいた事はしない(相談に来るのは別として)しかしこの時はとんねるずに自ら進んでアドバイスをしていた。珍しいことで、それはとんねるずを「本当の意味での弟子」のように感じていたのではないか。
この年「芸能人野球大会」では必然的に「たけし軍団チーム」対「とんねるずチーム」の様相で石橋貴明がピッチャーで完投。たけし軍団チームは敗北。殿は番組終了後、楽屋で激怒。敗北もさることながら気魄に満ちた石橋貴明のピッチングを最大限に称えつつ、「お前らも見習え!」と不甲斐なさを責めた。
ちなみにとんねるずは「オールナイトフジ」での舎弟「ペニーズ」と「もっこりーず」達に番組中「おまえらは俺たちのガンバルマンなんだからな!」と言っていた。
たけし軍団の「ビートたけし感動話」ってその殆どが殿から金品をもらうような話ばかりだよな。殿は常に気遣い・配慮の人だから、本当はもっといろいろと気遣いされているはずだが、彼らはそれに気付いていないんだろう。金品は誰にでも分かりやすいからね。程度が知れるな。狎れって恐ろしい。
殿の「配慮・気遣い」は性分でそれが自然体。基準は概ね「相手に、こちらの気遣いを覚られない事」といった風で、あくまでさりげなく。相手が少しでも気持ち良く、楽しく、過ごせるように気を遣う。相手がそれに気付いて申し訳なく感じたら本末転倒で最悪なので、そうならぬよう常に「状況判断」の人。
殿はともかく人を楽しませたり喜ばせるのが好きで、サービス精神旺盛。でも人見知りの江戸っ子なので、例えば誰かしらに贈り物や配慮をした結果、それを受けた相手が喜び、感激する。しかし照れくさいからその場には居たくないというメンタル。まあこういうのを「粋なはからい」って言うんだけどね。
1985年新島の砂浜ロケ。合間にダンカンが大阪百万円を抱え振り回し手を離した。大阪は頭から落ち鼻血を出した。ダンカンの度を超した悪ふざけだ。横にいた殿は無言でダンカンの頭を本気で殴った。顔がこわばったダンカンはまともに謝る事さえ出来ない。あの時見た恐ろしい殿の形相は忘れられない。
ダンカンは時折「人を人とも思わない」悪ふざけをする。ただでさえ「笑いと悪ふざけの混同」を許さない殿は、頭から落ちた大阪百万円を笑いながら見ていたダンカンを許さなかった。殿は「人に対する姿勢や態度」に本当に厳しかった。それでも手が出るほど怒った姿はそうあることではなかった。
殿には「常に東京の芸人がトップを獲って欲しい」念(おも)いがあった。そこには古今亭志ん生、立川談志に連なる「23区内生まれ、生粋の江戸っ子気質の芸人」という「のっぴきならない」もの。深見師匠の十八番も「田舎者を莫迦にする」というもので、一貫して「粋な江戸っ子」を上位に据えている。
殿は「東京出身芸人」推しに加えてさらに理想があった。 1.歌、踊り、芝居が並以上こなせ、それ以外にも芸事はできるだけ身につける 2.女にモテるルックス ──レベルが高いが、これは深見師匠の影響で「浅草芸人」とはのちの「マルチタレント」と同意義という事が分かる。
そんな殿が語る「理想の芸人」の要件はとんねるずが総て兼ね備えていた。アイドルに伍するルックス、歌やドラマ、映画でも活躍、更にスポーツも堪能。殿は自身に初めて冠された「マルチタレント」の呼称が早くも彼らにも引き継がれている事実をどう捉えていたのか。それがニッポン放送での場面に繋がる

キドカラー大道の基本情報

キドカラー大道(キドカラーおおみち、本名:大道隼人(おおみち はやと)、1964年10月29日 - )は日本の元タレントである。

1964年生お笑い芸人北海道出身の人物日本のタレント過去のたけし軍団所属者過去の太田プロ所属者活発

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